Aldo Gigli

    Aldo Gigli · ミラノ・コンチネンタルの共同創設者・舞台美術家、グラフィックアーティスト

    職人技の伝承、そして共有された映画への愛

    カール・ドゥモンシャルリーヌがミラノに到着してから、アルド・吉利は彼を導いた。クラブの内部組織、管理の分担、それぞれの気質。それらの会話は、クラブのすぐ隣にあるスナックバーで、数え切れないコーヒーを飲みながら続いた。そこには講義も方法論もなく、年長の男が時間をかけて説明するだけだった。年齢や地位の差を決して感じさせなかった。これは書面に残らない伝達の形態だが、しかし一生続く。期限を守る方法、チームの前でアイデアを守る方法、話す前に相手を理解する方法。

    二人はまた、映画への情熱も共有していた。カールは作家映画を好み、アルドは映画音楽の大コレクターだった。その親密さはブリュッセル映画祭で具体化した。装飾、コミュニケーション、ヌーヴェルヴァーグに着想を得たカフェテリアを共にデザインした。アルドはミラノの隣にある自分の事務所で、これらのプロジェクトの模型を作っていた。K comme Communication(KCC)というグループの広告代理店では、カールはマルコ・ロランのアシスタント・デザインディレクターだった。まさにその体制の中で、彼らはチームとして共通の情熱に取り組んだ。

    ミラノそのものも、完全に映画館でなくなったことはなかった。夜が本格化する前の夕暮れ時、そこではまだ映画が上映されていた。古い映画館の座席は消え、代わりに単純な金属製の椅子が並んだ。人々は煙草を吸い、画面に突っ込んでコメントし、笑い、各上映は集団の儀式、過剰に祝祭的なものとなった。カールはミラノのこの原初的な機能を継続した。映画を夜に、夜を映画に引き入れること。

    1981年、ミラノはジョン・ウォーターズの「ポリエステル」、ディヴァイン主演を、「オドラマ」方式で上映した。各観客は1から10まで番号のついたカードを受け取り、画面に番号が表示された瞬間にそれをこすって、シーンの香りを放つ。ずっと後、カール自身がミラノで活動していた時代に、彼はこの「スクラッチ&スメル」のアイデアをルナ・パークの夜のために復活させた。

    カールのアーカイブには、夕方の早い時間帯にミラノで上映されたこれらの映画のフライヤーが複数残っている。それらは、ダンスフロアが開く前に単に会場を埋めるだけのプログラムではなかったことを示している。場の特性を継承していた。映画はパーティの前奏曲、そしてパーティは映画の続きとなる。

    インク、マジック、板、レコードで溢れたその事務所は、仕事場であると同時に会話の場でもあった。映画、音楽、プロジェクトについて話し、実行可能になったアイデアを持ってその場を後にした。後にカールが手がけた多くの夜は、二つの模型の間でそこで語られた言葉から始まっていた。

    Aldo Gigliはパリでも活動し、映画、演劇、広告の分野で、Nana Mouskouri、Yves Simon、Catherine Lara、Alain Delon、Stéphanie de Monacoらと協働しました。映画のセットから舞台へ、舞台からダンスフロアへと移る舞台美術家は、ナイトクラブの装飾を作るのではなく、観客がまるで映画の中に入るように歩み入れる場所を作るのです。1998年、彼はベルギーを離れてコスタ・デル・ソルへ移り、個人住宅やレストラン、クラブの設計を続け、人々のために場所を描くことを決してやめませんでした。

    削って匂いを嗅ぐオドラマ・カード、サイン入り
    オリジナルのオドラマ・カード。映画の指示があるまで削ってはならない10の番号と、「Wait! Do not scratch until you receive instructions from the film」という注意書きがあります。このカードには、ジョン・ウォーターズと出演者の一人エディス・マッセイのサインが入っています。アーカイブ資料、1981年。
    「夜の灯台」:かつての映画館ミラノ
    サン=ジョス地区のかつての映画館としてのミラノを取り上げた記録映像。歴史家は、夜の灯台のような巨大な看板と、通行人を吸い込むように設計された漏斗状の入口、そして映画館と映画産業が並び立ち「小さなハリウッド」と呼ばれた街について語る。さらに、1978年の閉館から1981年の再開までが短く、建物が荒廃を免れ、人々を共有の喜びへと集めるという同じ企図が引き継がれたことを想起する。ダンサーのブリュノ・ビュルテは、音楽を原初の衝動として、心臓の鼓動を最初の打楽器として語る。映像資料、2021年。出演:文化遺産の歴史家、ダンサーのブリュノ・ビュルテ。
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    Historian: This sign is absolutely incredible. It is a lighthouse in the night and it really is something to attract people from far away. And then, once you are close, you find yourself in what is called this funnel entrance. It says it well, you could almost call it a suction entrance, to draw in the passer-by.

    Historian: Saint-Josse really was a little Hollywood, because there were not only screening rooms, many of them, as in many Brussels municipalities, but the film industry itself had settled there.

    Historian: In the 1930s and the 1950s people had no television. It was their only chance to see images, newsreels, films. You were seated inside a very luxurious ensemble in which, as at the Mirano, everything was geared to the spectator's pleasure and to showing off the spectacle.

    Historian: The transformation of the Mirano into a nightclub in 1981 is rather delightful, because there is a very short time between the closing of the cinema in 78 and the reopening. It keeps a place from falling into dereliction, into abandonment. And above all it is the resumption of a very coherent project, a project of conviviality where people come to meet and enjoy themselves. What better could you wish for a former cinema?

    Bruno Bulté: For me, music is dance. I dance, that's it. I dance for hours and hours and hours. I dance, I express myself, I have a blast. I never took a class. I was a choreographer for Alain Chamfort, for instance, without any diploma, choreographer or whatever. I am a club dancer. And for me music is also an emotion. It is a drive that is utterly primal from the moment you are born.

    Bruno Bulté: The heartbeat is the first percussion you feel. I don't even know whether you hear it, but you feel it. You wake up and...