Aldo Gigli · ミラノ・コンチネンタルの共同創設者・舞台美術家、グラフィックアーティスト
夜が広告を生むとき
アルド・ジーリの才能は夜の世界をはるかに超えていた。ミラノ・コンチネンタルのオーナーであるポール・ステルクとマルコ・ロランは、K comme Communication(略称KCC)という代理店を設立し、アルドはそこで装飾とコミュニケーションの両方を手がけた。クラブが自分たちの夜のために編み出したものを、今度はブランドが求めるようになったのである。
仕組みは単純だった。ミラノは極めて先鋭的で、上質なイメージを備えた場所であり、ブリュッセルの広告関係者が夜ごと集まっていた。ペリエ、フィリップ・モリス、ネスカフェをはじめ多くの企業が、その人々を呼び集める術を知る者たちの代理店に依頼した。長らくミラノのアートディレクターだったマルコ・ロランはその職を離れ、代理店のアートディレクターとなる。当時まだ一般的な呼び名を持たなかった職能、すなわちイベント・コミュニケーション戦略の始まりだった。
1986年から87年にかけて、KCCはスカールベークのアールでスウォッチのパーティーを開催した。アルドはホールそのものを舞台として扱う。空間の中に巨大な文字盤を組み、建物の規模に合わせて数字を描き、手描きの背景幕の前でパフォーマーが時計の針を演じた。ブランドはイベントの上に置かれるのではなく、その建築そのものになっている。
同じ論理から生まれたのがペリエ・カーである。アメリカ製のセダンを金色の王冠で全面に覆ったもので、当時ミラノでも働いていたナナールが一枚ずつ貼り付けた。代理店が手がけるペリエのイベントにはすべて同行し、ミラノの入口前に停められていた。人々が扉をくぐる前から、すでに評判を呼んでいた。
1989年、ブリュッセル映画祭のためにアルドが描いたレイアウトは、その手法の最も完成された姿を示している。夜の前庭、レッドカーペット、空を走るサーチライト。そして満員の客席、スクリーン、招待席、一列ずつ描き込まれた観客。図面は装飾を説明するのではなく、成功した夜をあらかじめ見せている。
ここで糸がつながる。マルコ・ロランがカール・ド・モンシャルリーヌを起用したのは、彼の最初のアクション「Barbare Changée」がすでに既成の枠を揺さぶっていたからだ。カールはアートディレクター補佐としてK comme Communicationに入り、やがて代理店での職務と並行して、自らミラノのアートディレクターとなる。